思うままにつづる

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※当ブログは個人の見解であり、所属組織とは関係なく、効果効能を保証するものではありません

技術記事の乱立の問題はある意味、「情報の飽食の時代」の象徴だと思う

最初に書いておくが、今回の記事は特定の事柄に対する批判ではなく、一個人の考えとしてこうなるのが理想ではないかということを書いたものだということに留意して読んでもらいたい。


少し前に高級なレストラン(お客さんは10人にも満たないがピアニストがピアノの生演奏をしていた)で料理を食べる機会があったが、非常に美味しかった。メインディッシュはこの前食べたサイゼリヤのハンバーグの半分くらいの肉だったが値段は5倍を超えた。雰囲気もよかったし、ワインも牛肉に合っていて美味しかった。普段よりは幾分か高いが支払っただけの価値はあったと感じた。

本題に入るが、技術系のクソ記事が多いのは悪だ、というのをたまに見かけることがある。

言いたいことはわからなくはない。だがそう思うなら、公式ドキュメント等を見ればいいという反論もまた然りである。

個人的には、フェイクニュースとかバカッター問題、違法ダウンロードと似たものを感じる。なぜこういった意見や問題が出てくるのだろうか。

個人がネット上で発信できるのが容易になったということ自体を非難する人は少ない。それは大勢の人がそれにより一定の利益を享受していると感じているからだろう。一方で、問題が何かしら出てくると「〇〇には制限を入れるべきだ」という論調になりやすい。自由だったところに制限をかけるのは簡単なことだ。ただし、これは本来問題ではなかったものにも制約がかかることを避けるのは難しい。

他にも方法はあるだろう。例えば、問題となる行為をやることで損をすることが明確になっている場合。とはいってもやってしまう人はいるだろう。 それ以外で言えば、これまでであれば問題が起きる状況だったものを問題とならない仕組みにする、である。これは正直難易度が高い。問題の本質を理解する必要があるし、そこから仕組みを考え、さらに技術的、政治的にそれを達成する必要もあるからだ。

ここまで書いたのだが、技術記事の乱立は結局のところ、誰でも情報を発信できる『飽食な時代』だからだろう。実のところ、技術系の記事の問題以外にもこういった問題は見たことがある。大学に行ったことがある人は論文を書く際に、Wikipediaは参考文献にしてはならないと言われたことがある人も多いだろう。これは様々な理由があるだろうが、特に誰でも書き込むことができ、校閲などがかからない信頼性の低さからであろう。こういったことに対して、数学者自身が名前を明記し、また他の数学者の校閲が入った上で数学的な知識を書くWikiを作ろうという動きがあった記憶がある(利用する機会もなかったので、どのようなページだったとかはもう8年ほど前の話なので曖昧だが)。

こうしたことを考えると、個人が記事を書くことを止めるのではなく、もう一歩進んで、より信頼性や価値の高い技術記事がすぐに探せる仕組みを作るのが良いのではないだろうか。そこには制約はあるが、一方でこれまでの自由さに制限はかからない。たとえば note での記事の販売などはそういうものに近いが、よりコミュニティ的な形式から生み出されるものが良いのではないだろうか。信頼できるコミュニティが信頼できる記事をまとめるだけでも違うだろう。あくまでもこれは思いつきの案で、どう達成するかなんてのは何も考えてはいない。

少し脱線してしまったので最初の話に戻るが、クソ記事の乱立は自由さの引き換えだと思っている。もし最初にダメなものは全てダメだということになれば、動かないが開発を進めれば非常に有用になる可能性のあるOSSの初期段階ですら、使う側からすれば動かないときにはクソなので、公開するなと言う話になってしまう。残念ながら、価値は一元的には決められない。最初はダメでも時間とともに良くなるものもあれば、当時は良い記事だったものも、時間が経つことで古臭いやり方へと落ちてしまうこともある。だれかにとってはクソでも、別の誰かにとっては有用だったりすることもある。

個人的にはこれからの様々な発展のためにも乱立することは諦めて、それを問題視するのなら、より目的にあった良い仕組みを考えれば良いんじゃないか、というのが結論だ。書籍と個人ブログの中間のような存在が仕組みとしてもっと幅広い選択肢として構築されれば、変わってくるのだと思う。すでにそういったものは技術書典や note など存在するし、情報はただで手に入ることに慣れてしまったが、そこからより価値のある情報には相応の対価を支払うときが来るのだろう。

いかに日本が飽食の時代でも、神戸ビーフは高いのだ。そこに対価も時間をかけるつもりもなく、「なぜアメリカ産牛肉ばかり並べ、神戸ビーフのような肉をなぜ売らないのか」というのは些か乱暴であるように思うがどうだろうか。それよりも本当にそうなってほしいのであれば、そうなる仕組みを作るか、高いお金と時間をかけて神戸ビーフを食べに行くか、諦めてすぐに買えるアメリカ産牛肉を食べているべきなのではないだろうか。